山本五十六 (かしら提供)
武器学校内にある予科練記念館前に平成16年1月28日に建立した新山本五十六ブロンズ像 昭和18年12月8日に建立され、高さが4m(台座を含めると6m)のコンクリート製
.除幕式に参列した禮子令夫人とご長男の義正氏 この写真だけでも神主が15人ぐらいいる
 
山本五十六元帥は明治17年(1884)4月4日に新潟の長岡で高野家の六男として生まれました。今年は山本五十六元帥が生まれて121年になります。(以下敬称略)

  五十六の父(長谷川)貞吉は高野家の入り婿で次女美保と結婚するも、彼女が子宝に恵まれず21歳の若さで死去、三女美佐と再婚して譲、登、丈三、惣吉とつぎつぎ男子を生むがその美佐も24歳で死去、女運の悪い父であった。

  その後、高野家四女「峯」と再婚し長女を生むも1歳で死去、次に次女加寿を生み、五男季八(打ち止めの意味)が生まれた。そして、六男坊主で三人目の奥様の末っ子として、ややこしい環境の中での五十六の誕生である。父56歳、母39歳(当時としては高齢出産)であった。五十六という命名も父のどうでもよい思い付きであることのように思われる。

  高野家没落後、再興を担う唯一の旗手が五十六の甥にあたる「力」(長兄譲の長男)であった。五十六と長兄は36歳の年齢差があり、甥の「力」といっても10歳年上であった。

  ところがその「力」は優秀ではあったが病弱だったため24歳で死去する。その時、父は五十六(14歳)に「お前は高野家にとってどうでもいい、力にかわってお前が死んでくれたらよかったのに」と言われる。その時から父との軋轢は決定的なものになった。しかし、母「峯」は末っ子の五十六が可愛くも盲愛することなくしっかりと人間形成の道を創ったのだった。

  そんな訳で父が84歳(当時としては大変な長寿)で大往生するも、知らせを受け取った五十六海軍大尉は葬儀に参列しなかった。しかし、五十六も母の見舞いのためにはたびたび休暇を取って郷里に出向いている。その後、母「峯」は五十六に「自分が死んでも決して帰ってくる必要はない。お前はお国に差し上げた人です」と言い切って、海軍大尉大礼服の息子の立派な姿を眺め、心安らかにその5日後にその生涯を閉じた。

  以上、山本五十六元帥の生誕にまつわる話でした。これらの内容は、海原会月刊誌「豫科練」を参考資料とさせていただきました。                       
(2005/04/02)
山本五十六元帥の軌跡
明治17年(1884)4月4日 新潟県長岡市にて旧長岡藩士高野貞吉氏の六男として生まれる。
父貞吉が56歳のとき生まれたので五十六と命名さる。
明治34年(1901)3月 旧制長岡中学校卒業。12月、海軍兵学校(江田島)へ2番で入学。
明治37年(1904)11月 海軍兵学校32期卒業。ハンモックナンバー(卒業席次)は13番/192人。
明治38年(1905)5月27日 日本海海戦(日露戦争)において装甲巡洋艦「日進」艦上で負傷し左手の中指と人差し指を失う。
大正5年(1916)9月 旧長岡藩家老山本家の養子となり家督相続(山本姓となる)。
大正7年(1918)10月19日 旧会津藩士三橋康守氏三女禮子と結婚。その後14年間に4人(2男2女)の子供が生まれる。
大正8年(1919)〜10年(1921) 米国駐在武官として単身赴任。ハーバード大学に留学。
この頃から、これからの海軍は航空第一主義の考えをもつようになる。
大正13年(1924)9月1日 海軍大佐で霞ヶ浦海軍航空隊附、12月教頭兼副長に任命。
将校でありながら操縦練習を行い、練習機の単独飛行ができるまでになる。住まいを土浦の神龍寺に置く。
大正15年(1926)〜昭和3年(1928) 米国在勤日本大使館付武官。
昭和10年(1935)12月〜11年(1936)11月 海軍航空本部長。 すでに中将となっている。
海軍航空が世界と肩を並べた九六陸攻の開発にかかわりデビューさせる。零戦の基礎となった九十六艦戦も同時デビューする。
昭和11年(1936)12月 海軍次官就任。
米内光政と井上成美との海軍トリオで米英との戦争を招く日独伊三国同盟に断固反対するが、陸軍や海軍賛成派の陰謀から海へ出される。
昭和14年(1939)8月 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官任命。
昭和15年(1940)11月 海軍大将任官。
この頃から、米英との最悪の事態を考え真珠湾攻撃の構想を練り始める。
昭和16年(1941)12月8日 帝国海軍機動部隊が真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が始まる。
瀬戸内海桂島の旗艦「長門」で指揮をとる。元帥は大使館の怠慢により宣戦布告が55分遅れたことを最期まで気にしていた。しかし、すでにアメリカは暗号解読しており、日本に最初の一撃をさせて欧州参戦への理由付けと考えていた。ところが、真珠湾の損害を見て日本海軍航空戦力の凄さに驚く。
昭和17年(1942)6月5日 ミッドウェー海戦。連戦連勝のおごりと敵の情報戦により、戦力的に大きく勝りながら大敗を喫す。主力部隊より500海里後方の旗艦「大和」で指揮をとる。
昭和18年(1943)4月18日 前線陣頭指揮していたラバウルから「い号」作戦による兵士の志気高揚のため、一式陸攻でブーゲンビル島のブイン飛行場に向う。到着間際、上空で暗号を解読していた米軍機P38に待ち伏せ攻撃され戦死。
昭和18年(1943)6月5日 国葬。9年前の東郷平八郎元帥の国葬と同じ日。元帥となる。
戒名「大儀院殿誠忠長陵大居士」。身長159cm、体重58kg、行年満59歳
昭和18年(1943)12月8日 土浦海軍航空隊に台座2.7m、身長3.6mのコンクリート製山本五十六像が除幕される。近隣の神主30数名が参列。
終戦により、米軍進駐前に軍関係者で上半身を霞ヶ浦湖底に沈める。
その2年後、下半身は管財の依頼で飯塚井戸店が解体埋設処分する。
昭和23年(1948) 地元有志により上半身が湖底から引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に安置。
平成14年(2002)6月10日 テレビ新潟の特番により、下半身は飯塚直一・和男兄弟が埋設したことがわかり調査発掘する。56年ぶりに発掘された下半身は武器学校資料館内に安置。
平成16年(2004)1月28日 武器学校内「雄翔館」脇に海原会はじめ有志の方々の浄財により製作された山本五十六立像(台座2m、身長2m、ブロンズ製、制作費1,300万円)の除幕式が竹来の宮本神主によってとり行われる。
(2004/10/06)
日本の最後通牒(宣戦の布告)は、外務省がワシントンの日本大使館に到着する時間を正確に守り、攻撃前アメリカ側に手交できるよう、暗号解読、タイプその他の時間を十分に考慮にいれて、完全に手配された。

  それにもかかわらず、ワシントンの日本大使館員は「なぜか、他に転勤を命ぜられた一下級館員のために、わざわざ到着する12月6日の夜を選んで盛大な晩餐会を催し、飲みかつ踊り、夜の更けるのを忘れていた」という。

  ワシントンの日本大使館員が、ダンスと酒でつかれ切って大使館に戻ったのは夜の10時頃であり、疲労と酔いと、睡魔と闘いながら、この重大な暗号の翻訳に取り組むのだから、まず、予定どおりの翻訳ができる筈がない

  翌日12月7日、ハル国務長官に最後通牒が届いた時より30分前、淵田総指揮官以下、日本空軍は真珠湾上空を乱舞し、米主力艦隊を完膚なきまでに叩いたのだった。

  ワシントンの日本大使館員が、翻訳を怠って、約束の時間に、日本の最後通牒をアメリカ側へ手渡すことができなかった一事が、日本にとって、永久に侵略者、無警告のだまし討ちの犯人という烙印を押される理由である。

  公明正大な攻撃であっても、日本を憎むことに変わりはなかったろう、しかし、その上、この手違いで、騙し討ちといういかにも卑劣な口実が加わったのだから、「パールハーバーを忘れるな」の合言葉とともに、その憎悪を倍加させる結果となった。

  山本長官が、だまし討ちにならぬよう、奇襲前に到着するであろうな――と、そのことばかり心配した、日本から在ワシントン日本大使館宛ての重要書類は、このようなわけで、約束よりおくれて国務省にもたらされたのだ。

  山本長官は日米交渉はどうなったか、去る5日にも会見があった筈だが、と気にして居られ、若し今日中に妥結でもあれば一命のもとに全艦隊を引き上げる腹を持って居られた。長官が一番懸念されたことは、米国に最後の通牒を手渡してから真珠湾を攻撃すると言う段取りに、手違いが生じてはならないことであった。

  かくして「ツクバサンハレタリ」の司令は発信されなかった。
  外務省と現地日本大使館の怠慢はいまさらのことではない。
(日付はワシントン時間)