明治17年(1884)4月4日 |
新潟県長岡市にて旧長岡藩士高野貞吉氏の六男として生まれる。
父貞吉が56歳のとき生まれたので五十六と命名さる。 |
明治34年(1901)3月 |
旧制長岡中学校卒業。12月、海軍兵学校(江田島)へ2番で入学。 |
明治37年(1904)11月 |
海軍兵学校32期卒業。ハンモックナンバー(卒業席次)は13番/192人。 |
明治38年(1905)5月27日 |
日本海海戦(日露戦争)において装甲巡洋艦「日進」艦上で負傷し左手の中指と人差し指を失う。 |
大正5年(1916)9月 |
旧長岡藩家老山本家の養子となり家督相続(山本姓となる)。 |
大正7年(1918)10月19日 |
旧会津藩士三橋康守氏三女禮子と結婚。その後14年間に4人(2男2女)の子供が生まれる。 |
大正8年(1919)〜10年(1921) |
米国駐在武官として単身赴任。ハーバード大学に留学。
この頃から、これからの海軍は航空第一主義の考えをもつようになる。 |
大正13年(1924)9月1日 |
海軍大佐で霞ヶ浦海軍航空隊附、12月教頭兼副長に任命。
将校でありながら操縦練習を行い、練習機の単独飛行ができるまでになる。住まいを土浦の神龍寺に置く。 |
大正15年(1926)〜昭和3年(1928) |
米国在勤日本大使館付武官。 |
昭和10年(1935)12月〜11年(1936)11月 |
海軍航空本部長。 すでに中将となっている。
海軍航空が世界と肩を並べた九六陸攻の開発にかかわりデビューさせる。零戦の基礎となった九十六艦戦も同時デビューする。 |
昭和11年(1936)12月 |
海軍次官就任。
米内光政と井上成美との海軍トリオで米英との戦争を招く日独伊三国同盟に断固反対するが、陸軍や海軍賛成派の陰謀から海へ出される。 |
昭和14年(1939)8月 |
連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官任命。 |
昭和15年(1940)11月 |
海軍大将任官。
この頃から、米英との最悪の事態を考え真珠湾攻撃の構想を練り始める。 |
昭和16年(1941)12月8日 |
帝国海軍機動部隊が真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が始まる。
瀬戸内海桂島の旗艦「長門」で指揮をとる。元帥は大使館の怠慢により宣戦布告が55分遅れたことを最期まで気にしていた。しかし、すでにアメリカは暗号解読しており、日本に最初の一撃をさせて欧州参戦への理由付けと考えていた。ところが、真珠湾の損害を見て日本海軍航空戦力の凄さに驚く。 |
昭和17年(1942)6月5日 |
ミッドウェー海戦。連戦連勝のおごりと敵の情報戦により、戦力的に大きく勝りながら大敗を喫す。主力部隊より500海里後方の旗艦「大和」で指揮をとる。 |
昭和18年(1943)4月18日 |
前線陣頭指揮していたラバウルから「い号」作戦による兵士の志気高揚のため、一式陸攻でブーゲンビル島のブイン飛行場に向う。到着間際、上空で暗号を解読していた米軍機P38に待ち伏せ攻撃され戦死。 |
昭和18年(1943)6月5日 |
国葬。9年前の東郷平八郎元帥の国葬と同じ日。元帥となる。
戒名「大儀院殿誠忠長陵大居士」。身長159cm、体重58kg、行年満59歳 |
昭和18年(1943)12月8日 |
土浦海軍航空隊に台座2.7m、身長3.6mのコンクリート製山本五十六像が除幕される。近隣の神主30数名が参列。 終戦により、米軍進駐前に軍関係者で上半身を霞ヶ浦湖底に沈める。
その2年後、下半身は管財の依頼で飯塚井戸店が解体埋設処分する。 |
昭和23年(1948) |
地元有志により上半身が湖底から引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に安置。 |
平成14年(2002)6月10日 |
テレビ新潟の特番により、下半身は飯塚直一・和男兄弟が埋設したことがわかり調査発掘する。56年ぶりに発掘された下半身は武器学校資料館内に安置。 |
平成16年(2004)1月28日 |
武器学校内「雄翔館」脇に海原会はじめ有志の方々の浄財により製作された山本五十六立像(台座2m、身長2m、ブロンズ製、制作費1,300万円)の除幕式が竹来の宮本神主によってとり行われる。 |
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(2004/10/06) |